犬と台風と靴下の話
この時期にはめずらしく、台風が近づいている。
夜には上陸する可能性もあるらしい。
まだ暴風域にも入っていないのに、既に風が強く、雨も降り始めた。
カーテンを開けてみると、遠くの草木が大きく左右に揺れている。
「さすがに無理か……。」
時計に目をやると、午前10時40分。
普段なら、ドッグランへ向かう準備をしている時間だ。
飼い主が、この時間に準備をしていない。いつもとは違う様子に、何かを感じているのだろうか?
今日は大人しく、寝そべって遠くを見ている。
どこか、諦めの表情にも見える。
仕方がない。
雨程度なら私が頑張れば済む話だが、台風は危険を伴う。
連れて行くわけにはいかない。
「今日は、お家で遊ぶか!」
……。話しかけても、無反応。
聞こえているはずなのに、私の方を見ようともしない。
「どうせ、出掛けないんでしょ。」
彼の表情は、そう言っている。
面倒な子供と同じだ。ヘソを曲げている。
「仕方ないだろう。台風は無理だ。」
近づいて、彼を説得してみるが、話を聞く気は無いようだ。
目の前の私が視界に入っていない。何を言っても微動だにしない。ただただ、遠くを見つめているだけ。
しかし今回ばかりは、何をしたところで結果は同じ。
台風の日にドッグランへ連れて行くわけにはいかない。
「これ以上は、相手してやれない。悪いが、我慢してくれ。」
そう言い残して、2階へ上がろうとした、その時。
ガタッ!
背後で彼が立ち上がる音がした。
「今度は、なん……あっ!」
さっきまで、不貞腐れていた彼が、私の靴下を咥えて立ち上がっていた。
「どういうつもりだ?」
先程とは対照的に、彼の視線は私を捉えて放さない。
そして私の目を見ながら、ゆっくりと靴下を床に置く。
ドッグランでもよく見せるこの仕草。
これは……挑発だ。
「もう一度聞く。どういうつもりだ?」
彼は、足元に靴下を置いたまま、静かに私を睨み続ける。
私から絶対に視線を外さないが、直ぐに靴下を咥えて逃げられるよう、神経を研ぎ澄ませている表情。
前足には、しっかりと体重を乗せている。
にわかに空気が張り詰める。
「かかって来いよ。」
外は台風の影響で、雨が降り始め、強い風が草木を大きく揺らしている。
天候は荒れそうだ……
「返せっ!」
取り返そうと手を伸ばした瞬間、彼は素早く靴下を咥え、左にステップ。そのまま部屋中を駆け回る。
追いかける私を嘲笑うかのように、ソファや椅子の上を跳ね回る。
こいつ……私を釣って運動するつもりだな。
人間を舐めるなよ!
お前のペースには乗らない。
人間の戦い方を見せてやろう!
ほれっ!
箱からおやつを取り出す。
「さぁ、靴下を放すんだ。そうしないと食べられないぞ。」
卑怯?これが人間だ。
彼は靴下を捨てて、目の前でお座りをしていた。呆れるくらい素早い反応。やはり、おやつの効果は絶大だ。
靴下を回収し、おやつを与える。
私の勝ちだ。
「もう、するんじゃないぞ。」
そう言い残して、リビングのドアを閉めようとすると、背後から声が聞こえてきた。
「まだだ」
そっと振り返ると、
「!!」
今度は、椅子の上で靴下を咥えている。
しまった!私が持っているやつの相方。
返せと言っても、素直に返す気はないだろう。
まったく……
またおやつを取り出そうとしたが、そんな私を見ながら、彼は咥えた靴下をブルブルっ、と振り回す。
「もう放さないぞ。」
……分かった、
とことん付き合ってやろう!
今度は、正々堂々捕まえてやる。
彼は、私を睨みつけながら、再び挑発をはじめる。
「かかって来いよ!」
外の雨と風は、次第に強くなっていた。
いよいよ、ここれからが台風の本番。
天候は、まだまだ荒れそうだ。